dawn
異世界で戦う仲間を追うこと。
それはこの世界との決別を意味していた。
まだ夜明けには少し早い。
タイクーン城最上階、飛竜が住まうその塔は、いつも強い風が吹いていた。
幼い頃に感じたあの風は、もう戻ってくることはない。
けれど、まだ残っている微かな風が頬を撫で、塔にたたずむ人影の紫色の髪をなびかせる。
城の背後の森がその風を含んで、ざわざわとささやいた。
中庭の噴水に水が注ぐ音がこだまする。
城の廊下に灯されたろうそくは細々と光を放っている。
城下の芝生は暗い夜露に濡れ、青々として息をひそめている。
眼下に望むのは、昔と何ら変わらない風景。
まだクリスタルも父も存在していた時と同じ風景。
ファリスが風に乱れた前髪をかきあげた時、その背後で動く気配を感じた。
息を吸って扉の方向を見据える。
「…誰だ」
とっさに腰の短剣に手をかけ、細めた目は猛禽を思わせるそれに変わる。
構えを崩さないままのファリスの髪が、再び吹いた微風によって闇に散らされた。
「脅かすなよ… こんなとこで何やってんだ」
「…何だ、お前か」
わずかに開いた扉の影から茶色の髪の青年が姿を現すのを認めて、ファリスは落胆したような安堵したような声とともに、軽い溜息をもらす。
鋭い目線が和らぎ、体に込めた緊張が蒸発するように解けていくのがバッツにもわかった。
ファリスは抜きかけた短剣を再び鞘に収め、柄からゆっくりと手を離した。
「何だとは失敬な奴だな、こっちは心配して探してたっていうのに」
「別に探してもらわなくてもいい」
「そう言うと思ったよ…」
バッツが呆れたような表情でファリスに歩み寄った。
ファリスはバッツに一瞥をくれてから暁の空に視線を向け、それ以上何も言わずに塔のバルコニーに座った。
先ほどの風は止み、中庭の水の音と静寂だけがあたりを支配している。
塔からはり出したそのバルコニーには柵もなく、風雨にさらされてレンガは色褪せて欠け、かつて飛竜が飛び立つ時につけた鋭い爪痕が残っていた。
「で、こんな所で何やってたんだ?」
「別に、何もしてない」
「…………。」
ファリスのぶっきらぼうな物言いに追及のしようがなく、バッツは仕方なく黙り込んだ。
何となく気まずい沈黙が漂う。しかし、そこを離れる気にはなれずに、バッツは腕を組んで景色とファリスを見るともなく眺めていた。
ふと、ファリスがバルコニーの縁の傷に触れ、思い出したように口を開いた。
「なあ、見えるか?この傷。昔飛竜がつけたやつなんだ」
「……いや、高いところは遠慮しておく」
バッツはあまり高いところに行きたがらない。彼の故郷の村で、その発端を聞いた面々は大笑いしたものだ。
もっとも、その時の顔ぶれの1人は、数日前にこの世界から去っていったけれど。
「俺さ、小さい頃は飛竜が大好きだったんだ。いつも乗りたくて、でも怖くて乗れなくて、父さん相手にだだこねてばっかりでさ」
「…俺だって飛竜に乗るのは怖いよ」
「そういう事じゃねえよ」
ファリスは憮然とした表情のバッツを見て笑うと、飛竜の爪で削り取られたバルコニーの縁に視線を落とした。
そこには、王が医者を求めて毎日のように大空へと旅立った時の、無数のえぐれた傷が残っている。
それは、その爪の鋭さとたくましさを簡単に想像できるほどの迫力を今なおたたえていた。
「この縁の傷、力強いだろ?俺の覚えている父さんも、力強くて優しい父さんだった。
何でもできて、強くて、俺は小さかったけど父さんが大好きだった…」
今度は先程よりも少し強めの風が吹いた。
葉擦れの音がガサガサと2人の沈黙をかき消し、夜明けが近づいた大地を風が渡っていく。
「…そうか…」
「父さんみたいに、強くなりたかったんだ」
その声に滲んでいたのは、恐らく父を守れずに目の前で失った事に対する後悔と自責。
ファリスに近づけば、その時こそ彼女を傷つけてしまうような気がして、バッツはバルコニーに座るファリスの背を見つめているしかなかった。
バッツの羽織ったマントがはためき、髪が風に吹きさらされてバサバサとなびく。
少しずつ空が明るさを増し、夜明けの冷たく澄んだ空気があたりを染め始めた時、バッツがおもむろに口を開いた。
「もうすぐ、この世界ともお別れだな」
その言葉に、弾かれたようにファリスが肩を震わせる。
「……そうだな」
このまま世界を残して、朝が来たらここを去らなければならない。
仲間と自分の思い出を天秤にかけるわけではなかったが、未練がないといえば嘘になる。
残された沈黙に、ファリスが空に向かってうなだれた。
「…辛かったら、こっちに残ってもいいんだぞ?」
「違うんだ…そういう事じゃない」
今にも消えそうな、かすれた声の裏に静かな悲しみと覚悟を映して、うつむいたままファリスは立ち上がった。
そのまま、バッツの顔を見ないで足早に扉の方へ向かおうとする。
「待てよ!」
バッツは去ろうとするファリスの手首を掴んで引き止めようとした。
その瞬間、紺碧の瞳にはっとした色が浮かぶ。
ひどく冷たい手だった。
バッツがそこに来るまで、何時間そうして立っていたのだろうか。
振り向いた表情は何かに耐えるようにきつく唇を結び、
翡翠の瞳は、涙をたたえたまま見るものを射抜かんばかりに強く輝いていた。
それは悲しい強さだ、とバッツはぼんやりと思った。
「……離せ」
「嫌だ」
「何でだよ」
「お前の親父との約束がある。お前を守ってやるって」
「…………」
振りほどこうとしていた腕の力が抜けて、ファリスは再び力なくうつむいた。
バッツはマントを外して冷え切ったファリスの肩にかけ、顔をのぞき込むように優しく見つめた。
「それとも、俺に守られるのなんてプライドが許さない?」
微笑みながら語りかけたバッツの言葉に、ファリスは何も言わずに弱々しく頭を横に振った。
その時、再び風が吹き、あらわになったファリスの顔を夜明けの薄暗い空が照らす。
一晩中ずっと、思い詰めて眠れなかったのだろう。
ひどく憔悴した表情が、痛々しいまでにそれを感じさせる。
「あーあ、こんなんじゃ綺麗な顔が台無しだぞ」
バッツが苦笑して、ファリスの涙を指で拭った。
「ファリスは自分の中に抱え込みすぎるんだよ。俺の事、もっと信用してくれてもいいだろ。な?」
「…うるさい」
バッツのその手を払い除けて、ファリスはきつい視線を投げつける。
しかし、いつもならそこでひるむバッツが、その時はそうではなかった。
「俺は本気だぞ?お前を守ってやるって事も、全部」
真摯な視線で真っ直ぐに見据えられて、逆にファリスの方が驚いて固まってしまった。
たまに見せる別人のような鋭角的な表情が、そこにあったからだ。
そういう時のバッツの視線には、自分が全て見透かされているような感覚さえ覚える。
ファリスはいつもその瞳の深さに引き込まれて、目をそらす事ができなくなる。
バッツの瞳の中に、ファリスは息苦しいような何かを感じていた。
先に目をそらしたのはバッツの方だった。
「…ファリス、これを見るためにここに来たんだろ?違うのか?」
遥か遠くを見やり、独り言のようにファリスに囁く。
いつの間にか、鳥がさえずり、地平線からは太陽がのぞいている。
夜明けの景色が、一面に広がっていた。
小さい頃にこの塔から見た景色が、そのままで佇んでいた。
呆然とした表情でその景色を見下ろしたまま、バッツの横をすりぬけて
ファリスはバルコニーの先端に引き寄せられるように、ふらふらと歩み寄った。
「……父さんと見た景色だ」
目を見開いて、ファリスは惚けたように呟く。
「そっか、父さんが守ろうとしたのはこれだったんだ……。綺麗だ…」
騙されたような、苦いような笑いをかみしめて、ファリスがくっくっと笑う。
ファリスの整った顎からふとこぼれた涙が、点々とレンガにしみを落とし、吸い込まれて消えていった。
「短い間に、いろんな事がありすぎたんだよ、ファリスには」
いつの間にかファリスのすぐ後ろに立っていたバッツが、振り向かないままのファリスを背後から柔らかく抱きしめた。
普段なら身を捩ってでも逃れようとするファリスが、その時は猫のようにじっとしていた。
「…暖かいだろ?威勢をはるのもいいけどさ、泣きたかったら泣いちまえ。
大丈夫、俺はどこにも行かないでここにいるから」
夜明けの風が、ファリスの頬にかかった茶色の髪を揺らした。
風はファリスの涙を含んで、後方の森から山へと吹き渡っていく。
ファリスは押し黙ったまま、後ろのバッツに少しだけ体重を預けて、吹く風を感じていた。
朝が訪れたら、再び歩き出さなければならない。もう戻れないかもしれない。
ファリスにとって、その時間はせめてもの執行猶予だった。
だから、広がる風景を少しでも鮮やかに、自分の中に刻み付けておきたかった。
そうしてどれくらい経っただろうか。
空はますます明るみを増して、兵士の宿舎ではもう起きている者もいるようだ。
「そうだ、出発する前に俺からプレゼント」
バッツはファリスに回した腕を解いて、自分の方に向き直らせた。
表情を柔らかく解いて、ファリスの足元にひざまずいた。
そして、おもむろにファリスの冷たい手を取り、その甲にそっと口付ける。
ファリスはその情景をぼんやりと見ていたが、バッツの体温を手に感じてはっと我に返った。
一気に状況を把握したファリスの頬に血が上る。
「………はぁ!?な、な、な、何やってんだお前!!」
「何って、騎士がお姫様に忠誠を誓う時にやるやつ…」
「いい!もういいから離せ!!」
真っ赤になって、ファリスはぶんぶんと手を振り回す。
バッツは低くうわっと呻き、眉をひそめて後ずさった。
「…素直じゃないなあ」
「黙れ!ほっといてくれ!!」
困ったような口調とは裏腹に余裕すら感じさせる笑みを浮かべ、バッツはファリスの瞳をのぞきこんで、ふと真面目な表情になる。
むっとしてファリスが上げかけた手を絡めとって、口元に引き寄せた。
「ほっとけないから、俺はここにいるんだろ」
「なっ……!」
ファリスが気圧されたようにたじろいだその瞬間、強く手を引かれる。
突然のことにバランスを崩したファリスは前のめりになり、かすめるように唇を奪われた。
森と、兵士宿舎の食堂から聞こえてくるらしいざわめきが、やけに大きく耳に入る。
「―スキあり」
勝ち誇ったようにニヤニヤと笑いながら、至近距離からのぞき込む青い瞳に、ファリスは頬どころか一気に頭まで血が上った。
「………こ、の野郎…ふざけんなよ!!」
「ぶっ!?」
肩にかけられていたマントを一気に剥ぎ取って、持ち主の顔めがけて投げつける。
「前言撤回だっ、馬鹿野郎!!お前なんかに守られてたまるか!!」
ファリスの顔が赤いのは、怒りのためか照れのためかわからなかったが、バッツの態度が逆鱗に触れたのは確かだったようだ。
命中したマント相手に悪戦苦闘しているバッツに、厳しい言葉を投げつける。
ようやく解放されたバッツに見えたのは、身を翻して扉の方へ走っていく紫色の髪の後ろ姿だけだった。
「あっ、おい!ちょっと待てって………あ〜…」
慌てて後を追ったが、時すでに遅し。
ファリスが消えた扉は瞬時に鍵をかけられて、バッツは文字どおり締め出しを食ってしまった。
「開けてくれよー、どうすんだよ俺〜」
情けない声が外側から聞こえてくる。さっきまでの自信満々な様子は微塵もない。
そのギャップに、ファリスは頭をかかえたくなった。
―誰が開けてやるか、馬鹿。
ファリスは扉にもたれかかって、一つ大きく息を吸って気持ちを落ち着けようとする。
大きく溜息を吐くと、さっきの記憶がよみがえってきた。心なしか、自分の頬が熱い気がする。
そのまま力を抜いて、ずるずるともたれかかったまま床に座り込んだ。
その後ろから、ドンドンと扉を叩く音と、ぶつぶつ文句を呟くバッツの声が聞こえる。
「…恋人にくらい、優しくしてくれてもバチは当たらないと思うけどなー…」
「誰が恋人だッ!」
ファリスが真っ赤になりながら扉に肘鉄をくらわせると、鈍い音が響くと同時に外側の文句はぴたりと止んだ。
それから、扉越しに沈黙が訪れる。
今更になってこみあげてきた恥ずかしさを持て余して、ファリスは髪をガシガシとかきむしった。
扉の外側では、同じように座り込んだバッツが笑いをこらえていた。
壁を隔てた人の気配が、そこから立ち去ろうとしていないのがわかったからだ。
普段のファリスが本当に怒ったりしたら、あっさり鍵をかけたまま置き去りにしそうなものだが、
なぜか、その時のファリスはそこに留まっていた。
「なあ、まだそこにいるんだろ?ファリス?」
バッツが軽く壁をノックしながら、扉の向こう側に話しかける。
すこし間があってから、ファリスの無愛想な声が返ってきた。
「……何か用かよ」
「ファリスの事、俺が死ぬまで守ってやるからな?」
「いらねえよ、そんなの」
「またまたー、強がっちゃって。さっきのお前、結構かわいかったぞ」
からかうようにバッツが話しかけたが、ファリスからは何の返答もない。
それもまたファリスらしくて、バッツは耐え切れず笑い出した。
「何がおかしいんだ!」
「いや、別に…かわいいなーと思って」
何を言っても、バッツには効果がないらしい。
バッツの笑い声に反応して、ファリスが声を荒げる。
しかし、返ってきた答えはそれこそ返答に詰まるようなもので、何か言い返すこともできずにファリスはまた口をつぐんだ。
すっかり夜は明け、朝の輝きが窓からこぼれおちてファリスに注ぐ。
もうすぐ出発の時間なのだろう。階下ではばたばたと走り回る兵士の足音が響いている。
悔しいけれど、こいつにはかなわない。
ぼそりと、口の中でつぶやく。
ファリスは、扉越しに背中合わせのバッツの体温を感じながら、紅を差したような頬を抱えた膝に埋めた。
今日も、自分がいない明日も、きっとタイクーンの空は晴れているだろう。
ファリスは、どこからか穏やかに吹き込んでくる風を感じながら、ふとそんな事を思った。
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